なぜ愛の神が人殺しを命じるのか(2) (坂本高志)

2022年3月6日

前回に引き続き、「なぜ愛の神が人殺しを命じるのか」―「聖絶」を考えるシリーズの2回目のメッセージです。

A.「なぜ神は残酷な裁きを下すのか?」 ( https://olive-church.net/sermons/herem-01/ )
B.「なぜそれを人間達にやらせるのか?」 (←本日ココ!)
C.「なぜ子供まで犠牲にするのか?」 ( https://olive-church.net/sermons/herem-03/ )

今回は、B「なぜそれを人間たちにやらせるのか?」についてです。

「自分の手でそんなことはしたくない、ノアの箱舟やソドムの時のように神様がご自分でやってくれればいいのに」と思う人もいるかもしれません。

しかし、まずこれは霊的戦いの文脈で理解しなければいけません。霊的戦いとは、天使と悪魔の直接対決ではなく、人間の魂をめぐる戦いなのです。それは、「人間はどちらに従うのか?」「どちらの王国を建て上げるのに組するのか?」というものであり、私たち自身の参与が避けられない戦いなのです。

また、イスラエルの民が「聖書」という壮大なストーリーの中で、非常に重要な役割を担っていることにも注目する必要があります。救世主がある日突然現れても、誰も信じないことでしょう。イスラエルの民は、メシア出現の土壌を連綿と紡ぎ、その正当性を打ち立てるという役割が与えられていたのです。そのために、偶像礼拝をする異邦人に対しては毅然とした姿勢が求められました。

このことは同時に、イスラエルの民の責任の大きさも意味しています。だからこそ神様は、イスラエルの罪に対して厳しい裁きを行われました。「異邦人の裁き」と「イスラエルの裁き」は、神様の救いの計画では表裏一体なのです。

神様は、王国の建設に私たちを用いようとされています。共同作業の中には、時に痛みも伴うこともあります。ここで留意したいのは、現在「聖絶」という言葉で正当化できる戦争や虐殺は一切ないということです。「聖絶」はあくまで、旧約聖書の特殊な時代背景の中でのみ神様がお命じになったことです。

このような厳しい聖書の箇所から目を背けないことは痛みを引きけることであり、神様の王国を建て上げる上で私たちに与えられた重要な使命を確認できるのではないでしょうか?

メッセンジャー:
聖書箇所: ヨハネの福音書 12:31-32, 創世記 12:1-3, 申命記 7:16, 出エジプト記 19:5-6

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