キリスト教信仰で、もっとも受け入れるのが難しいことがらの一つが、イエス様の復活ではないでしょうか。
「死人が蘇るはずがない」-と、どうしてもそこから抜け出せない。「死」という終止符は、決定的であり、誰も覆すことのできない終わりだと…。
そして、自分の理解に合うように、聖書の記述をぼかしてしまうのです。
復活の大勝利を、「イエス様は、私の心の中で生きている」という、貧弱な希望に置き換えてしまうのです。
あなたは、いつまでもイエス様が復活しなかったかのように生きてはいないでしょうか?
イエス様を、そして自分自身を、墓に閉じ込めたまま。
今日の箇所で出てくる、エマオの途上にいた弟子たちもまた、イエス様の復活の知らせを「幻」として捉えていたようです。彼らの顔には喜びはありませんでした。
あなたの顔を曇らせ、墓に閉じ込めている原因はどこにあるのでしょうか?
「過去」「現在」「未来」から、あなたが囚われている原因を見つめていきましょう。
「死は、勝利に呑み込まれた」(コリント人への手紙第一 15:54)。
イエス様が完全に死に勝利された、という圧倒的な喜びに、私たちが生きることが出来ますように。
聖書には、「ここ、笑うところ!」というところがあるような気がします。裁き人の3章のエフドのエピソードを読んでいて、原文でチェックし、モアブ人の王エグロンの描写が、やはり聖書を最初に聞いた人が「どっとウケて笑う」箇所だと思いました。その感覚がなぜかを確認するために原文チェックしたのですが、まさか「エマオの途上」も同じだとは思いませんでした。ありがとうございました。